散歩の小路

この小路は、当てもなくブラブラ歩くだけの、前後に何の脈歴も無い、思い付き話を敷き詰めた小路だったりします。

時折、傍らに在る椅子やベンチに腰掛けて、この年まで(証さないのです)関わった事例、趣味の話などを話して、 一番最初に講師の方に提出した「このホーム・ページの主題」への回答・・・「自分史的なモノ」という漠然とした コンセプトも踏まえて、新たな発想に苦慮していました。

「どう生きてきたか」という個人的な事では誰も興味を持たないし自分でさえモチベーションが下がる。

「どういう事が在ったか」・・・私が語る迄も無く、ネットで簡単に手に入る情報だ。

「何と関わったか」・・・お!これはいけるかも!

この年まで関わった事は、言葉を例にとっても、流行って、廃れるという事を 繰り返しているのです。

時流から少し外れただけで「死語」扱いで、口にした輩は嗤われる対象となったりします。

「温故知新!」と喝を入れようにも「何?それ」では腰砕けになります。

他の小路や枝道で名を挙げた人や事例が、過去に埋もれているなどという事ではありません。

それどころか、ずっと一線で活躍している人も沢山居るので、失礼な言い方にとられたら申し訳ありません。

でも、メディアが、テレビを主体とする時代に培われた感覚(テレビに出ていなければ落ち目)みたいな 訝しい意識はまだ残っている様だし、目は必然、旬のモノににとらわれがちになるでしょう。

それ故、旬でなければ新しい世代には知る機会も失われてしまいます。

そして、ネット時代の今は、何でも調べられる様になって便利には成ったと思います。

その中で、遠回りしないでも検索するのに必要なのが”キーワード”ではないでしょうか?

私が呈する”キーワード”がお役に立てれば幸いです。

そして、その”キーワード”が一つでも感性にシンクロしたとしたら、後述する”レンガ”と成るやもしれぬ という思いで綴りました。

只、検索の仕方は、好きな検索エンジンがあったり、独自の調べ方があったりする様なので、敢えてウイキペデイア等のリンクを、言葉や人名に貼って居りませんのであしからず。

さてさて、このベンチでのお喋りも脇道、横道に逸れたり、移動したりするかもしれません。

何せ、「頭の中の散歩道」・・・気が付いたら螺旋階段の最上段に居たり、いつの間にか気球の中の ベンチに座って居たりしてって・・・・。

ようこそ!ゲートは既に開いているのですよ。

最初は、原作と映画の雑感

詩人の「ハイネ」は言葉を紡いで語っています。

「空は広い・・・海は広い・・・」そして心はもっと広いと続いた後に、でも、君の事を考えたら、それだけで一杯になってしまうと展開させてゆくのは 詩人ならではと感心させられるところなのですが。

映画は、一つしか無い映像として表現され、固定されてしまうので、 頭の中に結ばれる映像としてはそれだけで一杯になってしまいます。

勿論、”印象”としての受け取り方は十人十色なのでしょうが・・・・。

一方、本は、頭の中を縦横無尽に言葉を駆け巡らせます。

想像力によって、無限の空間をカンバスとして、自分なりの映像を導き出してくれます。

それは、他の人は誰も観る事の出来ない、個としての映像なのだと思います。

どちらが良いとかを語る積もりは全く有りません。

自分の想像力が貧困だったら、映画から与えられる映像に圧倒されるでしょうね。

『シャイニング』は、「スタンリー・キューブリック」監督の名作であり、著者「スティーブン・キング」氏 の傑作本と言われています。

私は文句無く、「キューブリック」監督の映画に心酔しています。

後に、監督の解釈を不満とした著者が、自分で、自作に忠実な脚本で撮り直した作品を観ました。

私には、その辺にゴロゴロ転がっている陳腐なホラー映画という印象でした。

逆に、(あの本って、本来はこんなに詰まらない内容だったの?)と思ってしまう様な・・・・。

「S・キング」氏の作品は、本は面白い!と感じるのに、映画化されて面白いと感じたのは 『シャイニング』と『スタンド・バイ・ミー』『キャリー』位でしょうか。

他にも『ショーシャンクの空に』や『グリーン・マイル』がヒットしましたが、共に私のテリトリー外 なのでそれについては意見を持ちません。

他の氏の作品(特にホラー映画)は観るに堪えないモノばかりでした。

『ミザリー』も「キャシー・ベイツ」が好きだし、好演していたから観たけれど、印象に残ったのは彼女だけ という感じでした。

『シャイニング』は著者が誇って良い映画だと思うんですけどねぇ・・・・・。

『ブレード・ランナー』・・・私の中で文句無くBEST10に入る映画です。

「リドリー・スコット」監督は凄い才能だと感じ入ってしまいます。

原作は「フィリップ・K・クラーク」氏の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』です。

SFも趣味の範疇の私は勿論読みましたが・・・・もう、全く別のストーリーでしたね。

共通するのは『ブレード・ランナー』という職業位なものでしょうか? 原作は原作で面白かったけど、映画は別の作品として、何時迄も新しく感じる傑作だと思います。

『エイリアン』、『ブラック・レイン』、『テルマ&ルイーズ』、『ブラック・ホーク・ダウン』と 私が好きな映画が多い監督です。

著者「フィリップ・K・クラーク」氏も『マイノリティ・リポート』など映画化されてもクオリティーの高い作品が多いSF界の一人者です。

『シャイニング』も『ブレードランナー』も、監督の想像力や感性に、私の貧困な想像力も感性も叩きのめされた・・・・という印象で、これが嬉しかったりするのです。

序に記すと『猿の惑星』では不思議な感慨を経験しました。

原作も映画も、ラストシーンで一気に築き上げたモノが崩されるという構造は同じです。

でも、どちらも、その事では同じなのに、全く違う結末なのです。

この作品は両方の作品を、観て、読んで、比べてみると「上手い!」としか言いようの無い落とし方をしてくれる素晴らしい作品でした。

もし、知らない作品であったなら、経験してみてください。

劇団雑感

芝居も趣味の範疇だったりします。

アングラと呼ばれた赤テントや黒テントの時代から芝居には興味がありました。

結果は・・・一度も観た事はないのですけど(何をか言わんや!・・・ハイ、自覚して居ります)テレビなどで放映されたものはよく観ます。

「つかこうへい」さんはエッセイも含めて単行本や文庫本の殆どを読み漁ったものでした。

病院で、「36度8分、はい、平熱ー!」と言われた患者が冷たく言い放った看護婦に「もう一度計り直して下さい!」と すがって懇願する描写。

必死に熱を上げようと頑張る(?)患者。

軈て、「ふふふ、満を持したって感じね」と体温計を取り上げて・・・・。

こういう発想自体は「つか」さんだけのものでは無いと思います。

現に、私なども、「悪い所無し、健康!」の健康診断の 結果を見たりすると、「平々凡々と暮らして、何の悩みも、ストレスも感じなく生きているんだねぇ?」と後ろ指を刺された様な 気恥ずかしさを覚えたりします。

でも、それを言葉にし、その感覚をデフォルメして突きつけるのは「つかこうへい」さんの才能なんですね。

同じ様に「幼少の頃は近所から『天才!』って呼ばれたけど・・・仕方ない・・・だって、天才なんだモン」と後書きまで 洒落た表現で結ぶ「野田秀樹」さんも凄い才能なのだと思います。

劇団『夢の遊眠社』の公演は、娘からのビデオで代表的な題目は殆ど観られたし、NHKでの放映も見逃しません。

「反っくり返ったその言葉、ソックリ返してあげましょう」などという駄洒落の連発は、ともすれば、ナンでもカンでも 駄洒落を「親父ギャグ」と蔑む人に「笑いのセンス、理解している?」とソックリ返している様な小気味よさです。

言葉通り、矢張り、天才なのでしょう。

「蜷川幸雄」さん、「寺山修司」さん「唐十郎」さん・・・・と語りたい人は沢山居りますが、こうしてベンチに腰掛けて 話し込んでばかりいたら散歩になりませんよね。

散歩が終わったら、詳細が記されているサイトを是非ともご覧あれ?

読書雑感その1

中学生の時に読んだ「エドガー・アラン・ポー」・・・以降、殆どを読んで大ファンになったのですが、 最初に読んだ『大渦巻き』の描写は本気で恐怖を感じた小説でした。

その頃は、情報時代の現在と違って、事例を確かめる術も無かったから余計です。

そしてそれは、後にそれが真実の描写だと知って2回目の戦慄を覚る事にもなりました。

それは、渦巻きの描写もさる事乍ら、恐怖の余り髪が一瞬にして白髪になるという描写なのです。

その時には、物語を盛り上げる為の創作だろうと思って読んでいたのですが、それでも怖かったものです。

推理作家のイメージが強いので、読んだ事が無い人も居るとは思いますが、是非読んで、読み終わった後で 鏡で自分の髪の色を確かめてみて下さい!(逆効果でした?)

SFも「ハヤカワ」の全集を揃える位、のめり込んで読みました。

『トリフィドの日』はワクワクして読み、その後は流星群が見られると周りが騒いでいても、不安が付きまとうという後遺症が残る程でした。

ミステリーは、何故か『シャーロック・ホームズ』の「コナン・ドイル」には食指が動かずに 「エラリー・クイーン」や「アガサ・クリスティ」の方が面白いと思っていました。

新書や、既刊で読んで居ない作品を買い続けたのは「マイケル・クライトン」(『ジュラシック・パーク』や 、ハラハラして読んだ『緊急の場合は』『アンドロメダ病原体』などの著者)

「フレデリック・フォーサイス」(『ジャッカルの日』や『イコン』など、超一流というのはこういう人の事 を言うんだ!とひれ伏すしか無い作家でした・・・・でした、というのは断筆宣言をしてしまったからです。

事実の程は不確かだけど、ロシアが、軍事顧問としてアプローチしていたという情報も(有るだろうな)と納得 する位、詳しく確かな世界情勢をベースに緻密なストーリーを展開させるスタイルはフィクションじゃ無い!と 感じさせる位リアルな描写でした。

「ロビン・クック」・・・クック・ロビン(誰が殺した、クック・ロビン(コマドリを)の洒落のペン・ネーム なのかな?と今、記している最中に思ったんですけど・・・関係無いのかな?

この人の本も、読んだのは全部面白かったのでオススメです。

「マイケル・クライトン」と同じ様に医師の資格を持っているから、説得力が半端では有りません。

そして、著作『コーマ』は、その「クライトン」が監督をして映画化されたりしています。

『アウト・ブレイク〜感染〜』も「ダステイン・ホフマン」主演で映画化されてましたね。

『ブレイン〜脳〜』『マインド・ベンド〜洗脳〜』など『***〜***〜』というシリーズは どれも外れは無く楽しめました。

「メアリー・H・クラーク」女史のミステリーは、如何にも女性によるという繊細な筆致に擽られて買い続けた 本達でした。

男性の「トマス・ハリス」(『羊たちの沈黙』の著者)の世界に対して、女性の視点からの回答と私には感じてます。

『誰かがみている』や『ゆりかごが落ちる』は、早くページをめくりたい衝動にかられる程ワクワクしました。

他にも「パトリシア・コーンウエル」の女性検死官ケイトのシリーズも読み続けましたが、途中から著者が現在の 腐敗したり、エリート意識だけで、熱意に欠ける、と感じたFBIに対する意識、を反映してしまったのか、少々 トーンダウンしてしまった様に感じられるのは残念です。

折角、長い間、主人公ケイトと共に(「大草原の少女ローラ」や「北の国から」という子供が成長する様子が描かれた ドラマ)の様に、姪っ子の成長を見守ってきた私にとって、そうですね、今更知らない振りは出来ないかと、 頼まれもしない責任感を感じて、まだ、買い続ける事になるのだとは思いますが・・・。

「ミヒャエル・エンデ」・・・娘が小学生の時に、書店で『はてしない物語』の題名に惹かれて、手に取り、一寸読んで みました。(自分の事が書いてある本の中に入り込む?)私のテリトリーです!!

分厚い本だったので、読み聞かせようかな?と思って買ったのですが、娘は夢中になって読みふけり、私より先に 読み終えてしまったのです。

それからは暫く大変でした。

その時期、娘とはテレビで放映していた『一休さん』の影響で、どちらかが「そもさん!」 と言ったら「せっぱ!」で答えるゲームみたいな事をしていたのです。

それまでは「アメリカの首都は?」「ワシントン!」位で済んでいたのに、敵もさるもの、「ツバルの首都は?」 ・・・・・・(正解はフナフチなのですけど、ーフナフィティーとも)・・・無条件降伏です。

それが、この本をきっかけに奇襲攻撃の嵐です。

突然「そもさん!」「・・・・せっぱ」たじたじしていると「バスチアンが幼心の君に付けた別名は?」

「・・・・はぁ?」その後、娘が学校へ行った隙に、暗記出来る程読み漁ったのは言うまでもありません。

これは幾らなんでも覚えていないだろ!と、こちらも奇襲をかけても・・・返り討ち、あっけなく玉砕です。

わー!誰だこんな本買ったのは!・・・・・後の祭りでした。

それほど楽しんでくれたのならと、次々「エンデ」の新刊を買い続けました。

『クラバート』『モモ』など、大人も十分楽しめる作品が多いと思います。

因みに、映画の『ネヴァー・エンデイング・ストーリー』は、別物と割り切れば、それなりに美しい映像でしたが 本の、一囓り部分でしか有りませんし、(そこで終わられたらなー)という映画でしたねぇ。

2作目3作目は本とは何の関係も無いと思わせる映画です。

同じ一囓りの描写でも、7巻も在る原作を見事な映画にしてしまった『風の谷のナウシカ』は、漫画も映画監督も 共に同じ「宮崎駿」さんの手になる所以でしょうね。

読書雑感その2

かなりの歳になるまで日本の作家の本は文学以外はあまり読まなかった。

文学以外に記憶に残っているのは「柴田翔」さん『「されどわれらが日々』位でしょうか。

只、「シェイクスピア」で知ったシナリオ本の面白さの影響か、「倉本聰」さんは全集を揃えて読みました。

テレビドラマの『北の国から』や『君は海をみたか』は自分で感動したので、小学校低学年の娘に読み聞かせです。

劇中引用される現代詩の谷川俊太郎の「生きているという事、今、生きているという事、モーツアルトという事・・・」 劇中人物に成り済ましてウットリ読み上げます(これでも、演劇部出身なのです!・・・あれ?何処かの枝道で 裏方だったってバラシてましたっけ?)

そうですね・・・・俳優とは凄い人種だと関心させられました。

観ている人が泣ける場面でも、セリフを言う人物の設定では 怒ったり、笑ったりし乍ら話すのですから。

先にドラマを観てしまった私に「倉本」さんの脚本は酷な状況へと追い込みます。

台詞にならないのです・・・・こみ上げてきて、笑い乍らという設定の喋りに、嗚咽が混ざります。

まっ、娘も泣き乍ら聴いていてくれたから・・・良しとしましょうか・・・・と、そんな思い出が一杯の 「倉本聰」さん・・・エッセイも素敵な語りで笑い、泣き、考えさせられる作品が多いですよ。

戯曲という事でいうと、”エディプス・コンプレックス”の語源ともなった「ソポクレス」の『オイデプス王』の物語が見事です。

王の為に善かれと思った善意が王を追い詰める。

王もまた、正義心から発した真実への追求が自分の首を絞めていく。

見事な構成は、戯曲のエッセンスが全て詰まっているという感じです。

エッセイと言えば、泣きは無いのですけど、抱腹絶倒なのはJAZZピアニストの「山下洋輔」さんの本ですね。 面白い!のに、センスの良さがキラっと光ります。

『ピアニストを笑え』などの『ピアニスト***』シリーズは最高の面白さです。

仲間のジャズメン達が一癖も二癖もある個性的な才能有る人達なので、その人達とのやり取りを描写しただけでも可笑しいのに、それに加えて軽妙な筆致力が、腹がよじれる程の笑いへと誘います。

ピアノと同様、文才も並大抵の才能ではありません。

センスなのか何なんだのか判らないけれど、才能がギラギラと光るのは「筒井康隆」さんの本です。

一番最初に読んだ文庫本『パブリング創世記』で一気に魅せられてしまいました。

どうやら発想そのものが他人と違うのですね。

短編集なのですが、一冊の本の中で全く違った面をみせます。

ギャグの次に文学的な短編・・・・と思ったら、下手なホラーよりもずっと怖いリアルな描写と、頭の中の整理が追いつきません。

『虚航船団』という本の中では、文房具達と鼬の抗争を描き、ホッチキスが,]]]]]]]]]と喋ったりするのは発想が並外れていると関心してしまいます。

読書雑感その3

「サルバトーレ・ダリ」や「M・Cエッシャー」などの騙し絵を好む私は、小説でも仕掛けある本を好む傾向にあります。

それはラストでどんでん返しとかいう類いではなくて(勿論それも好きなのですけど)

文体や、本そのものに仕掛けがある本という意味においてなのですが。

『時計じかけのオレンジ』(映画も素晴らしい傑作でした) 文体は作者の造語に因る若者言葉で語られ、説明は在りません。

読み進めていく中で(何度か同じ様に使われるこの言葉は・・・・)と推理するしかないのです。

赤ちゃんが言葉を理解し始める事を疑似体験している様な気分にさせられました。

『アルジャーノンに花束を』(映画や舞台にもなっています) 文体が主人公の知能の発達・減退につれて、どんどん変化してゆくのです。

知能の状態により誤字・脱字で綴られたり、専門用語で綴られたりといった具合です。

(著者の「ダニエル・キイス」は『24人のビリー・ミニガン』『5番目のサリー』など多重人格を扱った本が多く、どれも、良い作品だと思います。)

古くはゴーゴリの『狂人日記』がそうでした読み進んでいるうちに(何か訝しいぞ???)とj感じ初めて、読後は(狂った人の日記を読まされていたのか)と、してやられる訳です。

裏切られる快感は本にはありますよね?

『はてしない物語』も初版の豪華な本の装丁が本の中に登場するという仕掛けがありました。

自分が読んでいる本の中の登場人物が入り込むその本が、今、自分が開いている本という仕掛けです。

「京極夏彦」さんは行間、そのページの文字の配列、フォントにまで拘っていたりします。

それは、たった一言「いやだ」という言葉だけでも、前後の文章、間合いなどで、とても効果的に背筋を寒くしてくれたりするのです。

「京極堂」を主人公としたシリーズは、作者が調べ上げた薀蓄を登場人物に語らせているので、勉強にもなりました。

分厚いシリーズ本は3周も読み直した程、取り憑かれてしまいました。

漫画雑感

漫画も趣味の範疇です。

小さい時には 『少年 』や『少年ブック』『冒険王』とかいう月刊の漫画誌を読んだりしていました。

暮らしが豊かな時期では無かったので、友達とお金を出し合って買ったり、『古本屋』という店で借りたりして。

「手塚冶虫」の『鉄腕アトム』や「横山光輝」の『鉄人28号』などに胸ときめかせたのがこの頃でした。

その後、定期刊行漫画誌は、『少年マガジン』『少年ジャンプ』等という週刊誌に変移して『あしたのジョー』)「ちばてつや」さん) 『巨人の星』(「川崎のぼる」さん)の様な、今も読み告がれる作品が生まれました。

私が、漫画というものを、単なる娯楽ではなく小説をも凌駕するものだと意識したのは「真崎守」さんの漫画を読んでからでしょうか。

勿論、「手塚治虫」さんはずっと別格で、『火の鳥』などは、もはや哲学書だとさえ思います。

只、「真崎守」さんの『共犯幻想』を読んだ時のショックは可成りなモノでした。

その後、「つげ義春」さんの『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』というシュールな世界 、『紅い花』の、キクチサヨコの叙情的な心象風景 『もっきり屋の少女』のコバヤシチヨジ

・・・デフォルメしたような方言が「井伏鱒二」さんの小説を彷彿させるようで、すっかり 彼女たちが心に住み着いてしまいました。

一度見たら全てが心に住み着いてしまう独特の世界観を持っている人です。

同時に、少女漫画の世界にも魅せられてしまいました。

「萩尾望都」さんの『ポーの一族』 主人公の名前が「エドガー」と「アラン」です。

そうして『ポーの一族』という事であれば「エドガー・アラン・ポー」、「江戸川乱歩」さんがその名前を もじったという大作家の名前となる仕掛けが思わず嬉しくなってしましました。

今でこそ、ヴァンパイヤ映画が流行っている様ですが、私の中では、この作品を超えるヴァンパイヤ映画 には未だお目にかかった事はありません。

『トーマの心臓』という作品も素晴らしい作品でした。

私の中でBEST10に入る『if...』とういう映画(「マルコム・マクダウエル」主演)で描かれるイギリスの 寄宿舎の学生達の生活(独特の世界という感じが私にはするのですが)それを彷彿させる様な世界が見事に 描かれている点でも漫画とは思えない程心に残っています 。

『マザー・グース』の「誰が殺したクックロビン?(こまどりを)」の一節が妖しく引用されていたりするのも 効果的で見事な作品です。

マザーグース雑感

「子供に買って上げるんなら、どんな本が好い?」と、何度か訊かれた事があります。

躊躇い無く『マザー・グース』と答えます。

もっと言うなら1975年に発行された、谷川俊太郎さんの訳、堀内誠一さんの絵になる『マザー・グースのうた』という 全5集の本です。

幾度も増刷を繰り返している様ですが、私が最初に手にしたのは初版の当時で、2集目、3集目と次の刊行を心待ちに していました。

それが、今ではボロボロになっても、娘の宝物の本になっているという事も理由の一つです。

幼い娘に訊きます。

「おんなのこって、なんでできてる?おんなのこって、なんでできてる?」

回らない口で「おさとうとぉ(お砂糖と)、シュパイシ(スパイス)と、すてきな、なにかも(何もかも)!!」 得意気に答えます。

その前の括りで、男の子が出来ているのは「蛙とカタツムリと子犬のシッポ」と知っているから得意にもなろうというものです。

小学生になってからも、「これはジャックの建てた家」と、私の応えを促します。

私・・・「に、ねかせた麹(こうじ)」、すると娘が「を、食べた鼠」私・・・「を、殺した猫」娘、私、娘、私・・・・・。

その言葉遊びの終わりまで続けます。

少し大きくなると「誰が殺したこまどりを?」「それは私と、雀が・・・・」と話が移ったりします。

この数行だけでも「殺した」という言葉が2度も記されている位だから、「子供にそんな本」という人も居たりします。

親がそう感じているのなら、勧めません。

親の、その感性の環境で育った子供には不気味な本でしかないでしょう。

『シンデレラ』だって、本来は、義姉達が靴に合わせる為に足を切ったりする描写が在るんだ!等という気はありません。

確かに、毒も沢山含んでいると思います、伝承童謡なのですから。

日本のわらべ歌「あの娘が欲しい花一匁」と唄われる歌の”勝って””負けて”は

(欲しい娘を、”買って”嬉しい、安い花代一匁で)と喜ぶ人買いと

(自分の娘を、花代一匁に”まけて”しまって悔しい」と、娘を身売りした貧しい家の親の心情を歌ったとも言います。

伝承童謡とはそうしたものだと思います。

「グリム」だって、集めた時の民話などは残酷な描写が多かったと言います。

娘は、何故なのか「ちびのウイリーウインキー」を怖がって、とばして、読みました。

(これは後に二人で話して「私が怖い声色で『子供達はみんな寝たか〜い?』と脅かしたのかなぁ?」と訊くと、あり得るけど 理由はよく覚えていないとの事でした、そうだとしたら、「イエロー・カード」ですね・・・・反省!)

絵も内容も、どうしても怖いからと、テープで暫く封印していたページも在ったりしました。

楽しさも美しさも、不気味さも残酷さも、薬も、毒も全てを含んでいる本。

それでも、というか、だからこそ、というか、捉えて離さない魅力の光を放ち続けている『マザー・グース』の世界。

「泳いできていい?」と訊く子供に「いいとも、いいとも、可愛い娘」と答えて「でも、絶対に水に近づかぬ事!」と結ぶ世界。

「ロンドン橋」が在ります、「ハンプティ・ダンプティ」が居ます、「3匹のめくらの鼠」が駆け回ります。

「谷川俊太郎」さんの訳は、リズムにのって口ずさめる様に工夫してあり、大人も子供も楽しめる本だと思います。

徒然なる雑感

小学生の頃には、「江戸川乱歩」さんなどのミステリーが好きでした。

他にも、SF小説を結構、読みましたねぇ。

『遊星からの物体X』『光る目』は読んだ後、暫く怖くて眠られなかったり

でも、本格的に本を読み出したのは高校を出てからでしょうか。

「世界文学全集」を買ったりしてから・・・

「シェイクスピア」を「中野好夫」さんの邦訳で読み、それなりに面白いと思った筈が 後に「福田恆在」さんの訳で読んだ時には、別の本かと思う程に感動して、訳者によってこんなに違うのかと 知らされたのもこの頃でした。

勿論、優劣の問題では無くて、自分の感性にマッチしたという事ですが。

顕著なのは『マザー・グース』でしょうか?

「堀口大学」さんを始め多くの人が訳しています。

私は「谷川俊太郎」さんの訳が一番馴染みましたが、これは前述の「シェイクスピア」も含めて好みなのですけどね。

『三国志』なんかも、翻訳の仕方でまるで違ったりします。

若い時には「サルトル」や「カミュ」を好きで読んでました。

学生時代が「安保問題」や「全共闘」等の学生運動・・・・時代が大きく畝り始める前兆の時期だっただけに少々 気負っていた様な気もします。

実存主義的な本を読んで刹那的に暮らしていた自分を肯定しょうと仕向けていたのかも知れません。

「でかんしょ、でかんしょで半年暮らす、後の半年ゃ寝て暮らす、よ〜い、よ〜いでっかんしょ!」という歌を 今の若い人は全く知らないでしょうね?。

大学生が、酒を飲み乍ら歌っていた・・・・その名残も残っている時代に過ごした高校時代は、演劇部員 という事もあって(名ばかりの舞台監督という裏方でしたが)、○○とは何ぞや?というディスカッションを 徹夜で続けたものです。

前述した「でかんしょ」とは「デカルト、カント、ショーペンハウアー」という哲学者3人の名前を綴ったモノで 哲学者の話や、何々主義について等夜っぴて熱く語った時代でした。

その頃は理論だけの頭で(勿論形だけの、という但し書き付きなのですけど)唯心論、或いは観念論という本に 魅せられて、理屈だけで「存在」を否定していたものです。

それが、ある日・・・・理屈に理屈を重ねて考える内に、「理屈に理屈を重ねる」存在が「在る」と気付いた時

名前や有名な言葉だけしか知らなかったデカルトの「我思う、故に、我在り」に符合した驚き!

そんな簡単な言葉でそれまでの自分を論破していてくれたのに気付かないでいたのでした。

その後『方法序説』を読んだりしたのですが、当時も、今も、よく理解は出来てない様です。

只、そのデカルトから戴いた一つの言葉”レンガ”が、今も自分の思索の中で中枢に在ります。

自分だけの解釈かも知れませんが、簡単に言うと前人や周囲が積んだ”レンガ”が在るから、其処から始められる という事です。

デカルトはもっと違った意味で、或いはもっと深い意味で言ったのかも知れないのですけど。

私がこのホームページで使用する言葉”レンガ”は単純に前述した私流の意味でしかありません。

”レンガ”が一つも無ければ、虚無から始めなければならないし、始めて成し遂げた成果も”レンガ”として 置かなければ次の人もまた次の人も虚無から始める事を無限ループの様に繰り返すだけです。

知り得た知識、作り出された知恵、成し遂げられた成果を”レンガ”として残したのなら、少なくとも、次の人には 選択肢が生じます。

虚無から自分なりの”レンガ”を形成するのも、存在する”レンガ”の上に積み重ねる事も自由です。

それ故に、枝道毎”レンガ”を置いて回っています。

アナタの頭の中に、運んで貰えたらイイななどと思い乍ら・・・・・・。

趣旨としてはそういうことだったのですが正直、有名な人の名前を掲げるのは、態々私が紹介したいなどと思うだけでも不遜な事だとも感じていました。

でも「、ビートルズ」は知って居るけど、聴いた事は無いなどとという話を聞いたりもします。

それは、若い時に「マーラーの名前は知っているけど聴いた事はない」と言ってクラシック好きな人の顰蹙をかった事と 然程変わらない事かも知れません。

それが、特に今の時代は、全ての分野で多様化してしまい、寧ろ、最大公約数の方が少なくなってしまった様な気がします。

昔なら、誰かが歌い出せば、殆どの人も知って居て手拍子で合わせたりしたものなのですが。

されば・・・・と、敢えて僭越な紹介も的外れではないかも?と始めた次第なのです。

脳・雑感

以前に頸椎損傷で手術をした事があります。

レントゲンを撮ると首の骨が蝶番みたいなチタンで繋がれていて不思議な気持ちがします。

それよりも、不思議だったのは、外傷が無いのに感じた痛みでした。

両手の指を組み合わせた侭離せないないのです。

離してしまったら、指と指が触れた瞬間にまるで引き千切られた様な激痛が走ります。

両腕から先は、何にも触れられない状態で、ティッシュの様な柔らかい紙が触れると、その場所が刃物で切られた様な感覚でした。

点滴は一滴一滴がまるでその都度、象が腕を踏みつぶしている様に感じられて、看護婦さんに「この侭なら、唇を噛み切ってしまいそうです、何か、口に咬ますタオルの様なモノを下さい!」とお願いした程です。

後遺症は残ってしまって、今でも人差し指と中指の間は、油断すると突然、カッターででも切られた様に感じる事が有ったりします。

見乍ら触るとそれ程でも無いのに、触覚が全部「痛い」と認識してしまう様なのです。

退院したての頃は、フワリと舞っていた雪を掌に受けた瞬間、バン!と掌を突き抜けた様で愕然としたものです。

通常で感じ分けられる「温かい」「冷たい」「柔らかい」「固い」等の感覚は全部「痛い」に置き換えられてしまいました。

最初の頃は、水で手を洗うにも「これは、水、だから、冷たい」等と言い聞かせたものです。

そんな経験から、脳というモノに興味を持ち、娘が送ってくれた脳に関する本を読みあさったものです。

誰にでも多分有ると思われる不可思議な感覚。

実は、脳が、「視た」という視神経からの情報から「視た事を認識」という通常の処理を、その時には間違え為に起きる現象という説もあります。

ここからが面白いのですが、脳は、自分が間違った事を認めないで、辻褄を合わせようとするという性質が有るという事なのです。

「視ている」という映像情報より「視たよ」という「認識」の方を謝って先に受理してしまった為に「視ている」という先の事実を「前に視た様な・・・・」と誤魔化してしまうという事でしょうか?

脳が、脳自身に都合の良い解釈で辻褄を合わせるというのは、この本によって私自身も体験しました。

網膜の中は焦点で結ばれた映像情報を脳に送る為の神経の束が一カ所在ります。

他の場所は映像が映り込むのですが、その場所だけは穴なので映りません。

それを盲点という事とはご存知だと思われますが、その事が、脳が嘘つき(?)という事を簡単に証明する実験に適した事となります。

一本の直線と、少し間を開けた、もう一本の直線・・・・その隙間の部分が丁度盲点に当たる様にその線を眺めると、盲点がその隙間に当たった瞬間、線は繋がった一本の線に見えます。

残念乍ら、私の脳も嘘つきでしたねぇ・・・・繋がって見えてしまいました。

(この線が、真っ直ぐ来て・・・一寸今、盲点にかかってしまって見えなくなったけど、先に在る線と同じ線上に真っ直ぐ書かれているので、これは、繋がっている筈だ)なんて辻褄を合わせているのでしょうか?

これが悪い事なのか?というと・・・・それを説明するのは本題では無いので、興味をお持ちになったら是非脳に関する本をお読み下さい。

私の脳は、指・手・腕から神経を通じて送られてくる情報を、頸椎の中を通る神経の束の何れかが傷付いたか骨の棘が触れるかして全てを「痛い」に置き換えているのでしょう。

理屈では判るのですが、外傷も無い指や腕が痛いのは矢張り、理不尽だし不思議な気がします。

若しかしたら、意を決して踏み出した筈のこの一歩も、脳が作り出した幻想だったりして・・・・・

・・・なんてネ?

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