絵画の小路

(過去の枝道)

ここでも矢張り年賀状の絵が半分以上を占めています。

一番古い絵は30年以上も前のモノだったりしています。

殆どの絵は他の枝道のカテゴリーの中で、もう一度紹介したりもしているのですが、ここでは、脈暦が無く、只、古い絵という事だけの括りで掲載してあります。

一応はそれでも新しい順に並べた積りではいますが、余り古い絵になると、只、散らばっていた古いスケッチブックに在ったというだけで、何年頃に描いたのか判りません。

年賀状だと干支が描かれてあるので、調べると判るのですけどね。

趣旨が私の絵の紹介とかいう事ではないので、何年頃の絵だという事も重要な事では無く、支障も無いとアバウトに配置してあったりします。

尚、年賀状の中に名前が在ったりするのですが、その人宛に作成したもので、作成当時と同じパソコンを使用しているのだったら、同じフォントが在って変更のしようも在るのですけど、残念乍ら作成時のフォントが無かったりします。

そのテキストを変えると、一応、全体のバランスを考えてフォントを組み込んだ当時の意図が失われ、印象がガラっと変わってしまう。

・・・・という事で○○様などの表記はその侭で載せる事にしました事を書き添えておきます。

結構、その頃には3Dソフトで作った缶の裏側に、相手の名前を掘り込んだ様に見える技法を使って、「この年賀状はアナタの為に描きましたよ」と、アピールするという姑息な手段を編み出していた時期でもありました。

でも、貰った人が、その事を喜んでくれたりすると、「姑息な考えも捨てたモンじゃない」と、次回はどういう手でいこうか?と「姑息道」まっしぐらです。

色々考える事や、実験してみるのは自分のスキルアップにもなりますしね。

・・・・この枝道は別に「姑息の薦め」ではないのですし、道に罠も仕掛けてありませんのでご安心を。

そんな枝道なのですが、ブラブラと歩いて、景色を眺めてみて下さい。

では、ゲートを開きます、ようこそ!

過去の枝道

過去の絵について

年賀状の時にしか描かない為に、パソコンで描き始めた最近の画像はファイルコピーしてあるのですけど 昔は一枚一枚手書きでしたから、手元に在るのは「宛先不明」で戻ってきたり、何故か半端で止めたモノとか、失敗してしまったモノ位しか残っていません。

10年程前に、就職探しの件もあって、親しい知人へ過去に出した年賀状を見せて貰った事が在ったのですが、「こんなの、描いていたんだぁ・・・・」と、すっかり忘れていたモノが大半でした。

投稿したり、発表したりするには、学んだ事も無く、只、好きで描いていたというだけの独学でしたので、「基礎が出来ていない」とか「デッサンが狂っている」等と指摘される事は確実!と、自分の中の「頭の中の散歩道」に置き忘れていたモノが殆どです。

最後の2枚の画像は「技法の枝道」で綴りましたが、コップと皿のグラスリッツエンです。

絵では無いのですが、ガラスに絵を描くという技法なので、全く無縁でもないのかな?と思って載せました。

一番最初の着物の絵は寒中見舞いですが、何時も一句添えて手紙をくれる先輩に無理やり頭を捻って言葉を添えてみました。

得意分野ではないので、それだけで何日もかかった思い出があります。

着物の裾が広がって、屋根が雪で覆われた家の着想は、こういうイラストを描く「永田萠」さんの絵から戴きました。

最後から4枚目の絵「不思議な絵の下書き」は30年以上も前に何となくスケッチブックに描いていた下絵です。

この頃も、今も尚、「最近の枝道」のトラの絵スズメバチの絵など、騙し絵や、在りえない不思議な絵は、モチーフとして感性の 中に在り続けています。

14枚目の少女の絵は、同時期位のスケッチブックに在った絵ですが、昨年描いた辰年の絵にも同じ手法(ビアズリー風)で ひたすら細かく描くという事を繰り返しています。

細かいのが得意という事もあるのですけど、好きなモチーフからは逃れられない様です。

過去の枝道の別れ道

此処まで書き進めて、「ホームページ作成」にあたって、一つ、大きな問題に突き当たりました。

文章というか、文体が統一されないという事です・・・本当はマズイのでしょうねぇ?

よく「ヤクザ映画」を観た人が映画館から出てくると肩で風を切って歩くなどと揶揄されます。

私の場合は流石、それはありませんが、その時に読んでいる本によって文体が変わるという性癖が有る様です。

『北の国から』を読んだ後は暫く「拝啓○○さん・・・・・・これが今年、我が家に起こった出来事でした」

「三島由紀夫」さんを読んだ後などは最悪で「○○は△△で××に」と、後で自分でも読めない漢字の羅列です。

判り易い性格なんでしょうね?

手紙などを見ると、書いた時点で何の本を読んでいるか直ぐに言い当てられます。

でも此処で、私が時折使う「なんてね」は『告白』を読み、「映画」も観た故の影響では無い事を告白させて戴きます。

「湊かなえ」さんが生まれるずっと以前から結びの言葉として使っていたのですから。

たまたま彼女が先に有名になってしまっただけの話で・・・・私が有名になる予定は今の処無いようですし、「映画」での、その言葉の使い方は効果的で、感動的でもありました。

なので訴訟は控えようと・・・・・・・なんてねって、なんてね。

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